池と見え隠れ
池泉回遊式庭園については「池の周りを歩きながら変化する景色を楽しむ」ものと説明されますが、変化の例として「見え隠れ」があります。
池の周りの路から池が見え続けるのか、それとも見え隠れするのか。これは庭の方向性や見どころに関わる割と重要な違いではないかと思います。室町時代以前と江戸時代に分けて説明しましょう。
まず室町時代以前を見ると池が見え続けるのが普通で、天龍寺や鹿苑寺(金閣寺)がその例になります。この場合、池の島や半島の姿、対岸の護岸など、池関連の物が絶対的な見どころとなるでしょう。
ところが江戸時代前期には、池のほとりに築山を造り、その裏(池から遠い側)に路を通すことが流行します(築山ではなく木で隠すこともあります)。このように池が隠れるのは「視界を閉ざす/開く」という大きな変化を狙ったものでしょう。以下に例として桂離宮、栗林公園、小石川後楽園の写真、衆楽園の古図を載せておきます。
作庭家で庭園史家でもあった重森三玲はこう書いています。
「(前略) 回遊路が、直にその池畔の線に沿うものは殆どなく、その間にいくつかの築山や丘地があったり、植え込みがあったりなどして、其の外を回遊するのがこの時代の特色である。つまり隠見の差を大きく儲けて見えつ隠れつすることをを、この時代の人々が好んでいるから、その点では、鎌倉期あたりの例えば西芳寺庭園とか金閣寺池庭とか天龍寺池庭とは、まったく相違している」
重森三玲 『日本庭園史大系 第15巻 江戸初期の庭(二)』
撮影地点からも建物側からも池は良く見える。築山で隠したりはしない。
見えにくいが中央右寄りに橋があり、橋を越えると路は写真右端の森に入る(路から池が見えなくなる)。
…で、橋を渡った間もないところの写真がこちら
池を一周するにはここを通る必要がある。その間池は見えなくなる。
図左側の山の塊の中にある黄色っぽい線が路。当然そこから池は見えない。
現地で見るとこんな感じ。池は右の築山のさらに右にある
南湖周辺には、築山で池が隠れる場所(図中のX)が4、5か所ある。目のマークは池がよく見える場所
路が築山の裏を通っていることがわかる。
1の地点から進むと池は見えなくなる(左の築山が1で見えていた山でその向こうが池)
2の地点から進んで池が良く見える場所に出たが、写真左に見える築山のところまで行くとまた池が隠れる。