築山
【概要】
庭などにある人工の山を築山(つきやま)と言います。
築山は池を掘った時に出る土処理に使えるので、庭のどこかに池があれば庭のどこかに築山もあることが多いです。
【歴史】
庭に土を盛り地形を作ることは奈良時代には行われていました。当時の築山で現存するものはありませんが、発掘調査で平城宮跡東院庭園 (奈良県) から築山が発見され復元されています。
平安時代に書かれた日本最古の庭作りのテキスト『作庭記』には築山の記述があり、この頃には庭に山を築くことは一般的だったようです。現存例は少ないのですが、毛越寺庭園 (岩手県) や鳥羽離宮跡 秋の山 (京都府) などの例があります。
鎌倉、南北朝、室町時代の回遊式庭園では天龍寺、鹿苑寺、慈照寺などが有名ですが、これらの庭にはこれといった築山がありません(本物の山麓にあるので築山を築く必要が無かったのでしょう)。この時期の回遊式庭園では旧秀隣寺、鑑賞式では万福寺、保国寺などに築山が現存しています。これらの庭園では石を立体的に配置する上で築山が活用されています。
桃山時代には石組に一層力を入れた庭が作られましたが、ここでも石の立体的配置のために築山が活躍しました。
江戸時代には大規模な築山を造ったり、多数の築山を造ったりと積極的に築山を活用しました。これは平地に大庭園を造ることが多くなったためと言われています。利用方法も多彩で、築山自体を見せるものもあれば視界を制限するための築山もあり、展望台になっているものもありました。また築山の表面をどう保護するかという問題についても、芝、苔、刈込など、様々な手法が試されました。
明治時代には不自然な築山や名山に見立てる築山は否定されました(自然主義の庭園観のためです)。築山はさほど大きくないもので自然な樹木で覆うことが多くなりました
「築山は平安期以来、各時代の庭園に好まれたのであるが、それにしても、江戸時代ほど築山を好み、かつ傑出した築山を造った時代は他に見られない」
(重森三玲 『日本庭園史大系 江戸初期の庭(一)』 より)
ということなので、江戸時代の例が多くなります。
【なぜ築山を築くのか】
1 築山を名山、聖山に見立てて仰ぎ見る
2 石組などを立体的な造形とする
3 築山に登る
4 築山の上から庭を眺める
5 ランドマーク的な、特徴的な景観とする
6 山を歩いているような感じを出す
7 地形で視界を遮る
etc.
このうち1、2は鑑賞式庭園と共通であり、3、4、5、6、7は回遊式庭園に特徴的な使い方だと思います。
【築山の形態観察】
傾斜は 急/緩
山の形が よく見える/あまり見えない
峰が はっきりしている/はっきりしていない
山を覆うのは 芝/苔/低木/高木/石/なし(土むき出し)
平地との境が 明確/不明確
稜線の形は 反り/むくり/直線的/見えない
独立峰なのか、山塊・連山なのか
名山・聖山を象徴する築山は形がはっきり見え、平地との境も明確で、峰がはっきりしていることが多い(左)。自然の中を歩くような築山はその逆(右)
徳島城表御殿庭園(桃山時代)
廬山(中国の聖地であり景勝地である)と呼ばれている。築山の表面はごく短い熊笹でおおわれている。頂上へ続く道がある。小石川後楽園
高さ6m。主に刈込でおおわれている。頂上は展望台のようになっている。
高さ8mの築山で木が多く、山登りの感じがする。木が多いため山の全体形は見えない。兼六園の山崎山
桂離宮の腰掛待合の前にある。池を隠す(早くから全てを見せない)効果があるとされる。植わっているのはソテツ。
池辺に築山があり、園路は築山の裏(池から遠い側)を通っている。そのため、歩くときに池が見え隠れする。栗林公園
衆楽園北部には築山の群があり、路や曲水は築山の間を通っている。
低く緩やかな築山(梅小路公園朱雀の庭)
大仙公園日本庭園の「廬山」と呼ばれる築山で、グラウンドカバーはササ
参考: 鑑賞式庭園、枯山水の築山
鑑賞式庭園、枯山水の場合、山歩きも眺望も問題外。
築山の意義は主に山を象徴することと立体的な造形になりそうです。