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日本庭園と芝

​【前説】

庭に芝生を植えること自体は奈良・平安の昔からあったと考えられますが、

どのような意図で芝を使ったのかははっきりしません(ただの土の流出防止で、美的な意味はなかった可能性もあります)。表現として芝を使ったことが明らかなのは江戸時代からです

​庭に芝を植えることは日本でも案外多かったのですが、注目される芝生は少なく、多くの場合芝は脇役だったようです

​【芝を植える意味】

芝を植える意味はまとめると3つあります

・地面保護

・景観

​・レクリエーション(休養、スポーツ、ピクニックなど)

このうち地面の保護と景観という役割については他のグラウンドカバーとも共通しますが、レクリエーションの場になるという点は、苔や石敷きとは違う芝生独自の点です。

江戸時代の武士の日記には、庭の芝原で駆けっこをしたと書いているものもあります。

​【芝は古くから知られた造園材料

芝は古くから知られた造園材料です

日本最古の庭園書と言われる平安時代の『作庭記』にすでに

​「杜しまは、ただ平地に樹をまバらにうゑみてて、こしげきに、したをすかして、木のねにとりつきつき、めにたたぬほどの石を、少々たてて、しばをもふせ、すなごをも、ちらすべきなり」

​という記述があり、芝が造園材料と認識されていたことがわかります

奈良時代~平安時代の貴族の庭には儀式や宴の場という性格があり、おそらく木がさほど多くない開けた地形でした。このような日当たりの良い開けた場所のグラウンドカバーとしては芝が第一に思い浮かびます

その後鎌倉時代の歌集『夫木和歌抄』 (ふぼくわかしょう) には「きりしは」(切り芝)という言葉が登場し芝を刈っていたことがわかりますし、室町時代後期の公家の日記『実隆公記』 (さねたかこうき) や室町時代末期の公家の日記『言継卿記 』 (ときつぐきょうき) には庭園に芝を植えた記載があります

さらに時代が下って江戸時代中・後期になると一般向けの庭づくりの本『築山庭造伝』 (つきやまにわつくりでん) にちらっと芝が出てきますし、曲亭馬琴の日記にも芝刈りのことが出てきますので、町人の庭にも芝があったのでしょう

宮跡庭園(発掘復元)の芝生

​【実は様々な有名庭園に芝生が】

芝は日当たりの良い開けた場所のグラウンドカバーとしてふさわしく、しかも古くから知られていたとなれば、古典庭園でも芝を植えた所があってよさそうなものだと思いませんか?実はあるのです。ここでは平等院庭園と天龍寺庭園の写真を挙げておきます。

​ただし、グラウンドカバーというものは比較的簡単に変わるものですから、できた当時からずっと芝が植えられていたとは言い切れません。常栄寺 (山口県) のいわゆる「雪舟庭」は現在芝生に覆われていますが、かつては白砂敷きだったという説もあります。一方、京都仙洞御所のように、芝生地があったことが古図で確認できる例もあります。

平等院庭園の芝
天龍寺庭園の芝

​【芝を大規模に使用した例も

​岡山後楽園では芝を大規模かつ目につく形で使い、芝生が庭の主要要素となっています。

その中でも古くからありまた目立つ位置にあるものは主屋と池の間(下の写真のあたり)で、1689年(元禄2年)10月にここで藩主が家臣の武芸を見物したという記録があります。また18世紀初頭に描かれたと推定される平面図 (『御後園地割御絵図』) にも「芝原」の書き込みがあります。

その後園の南部や東部にあった本物の水田が縮小され、跡地が芝生になったことでさらに芝生が拡大しました​。現在では芝生の面積が約19600㎡もあります。

なぜ芝を大規模に使ったのかについては、田園風景を表現するために稲の代わりに使ったという説や、西洋庭園の情報が入ってきたからだという説があります

岡山後楽園の芝生

​【もっとあった可能性

現在残っている古典庭園で芝を大規模に使っているものは多くありません。ですが江戸時代にはもっとあった可能性があります。例えば柳沢吉保が造った六義園は江戸時代には現在より芝が多い庭園だったでしょう。江戸時代に描かれた日記には芝を購入したこと、芝焼きをしたこと、藤代峠で駆けっこをしたことなどが書かれています。現在の藤代峠は木に覆われていて駆けっこには向きませんが、日記が書かれた当時は芝生の山だったのでしょう。

​【芝生地を園内名所とした例も

栗林公園南西部の芝生地は「鹿鳴原」と名付けられ、1745年に書かれた公式解説というべき『栗林荘記』や、同時期に詠まれた漢詩集『栗林二十詠』『栗林二十境

にも登場します。名前からすると草原に見立てているようです

「亭の南は即ち鹿鳴 結縷 地に敷き 以て座臥すべし」(『栗林荘記』)

註: 結縷 = 結縷草 (コウライシバ) 

「晴日ユウユウの鹿 平原 春草新た 笙を吹き復た瑟を鼓し 以て嘉賓を燕すべし」

(『栗林二十詠』)

「原上鹿ユウユウ 應に春草の長きを憐れむべし 嘉賓を楽すに関せざれば 草茵 幽賞に快し」

(『栗林二十境』)

(いずれも原文は漢文)

「座臥」 (座ったり横になったり)、「燕す」 (酒盛りをする)、「草茵」 (草のしとね) 等の言葉にレクリエーションのイメージが感じられます

『栗林荘記』『栗林二十詠』『栗林二十境』

については↓

『栗林公園と歴代藩主 ―瀬戸の都に咲いた華』

栗林公園の「鹿鳴原」

​【芝の調達と手入れ

江戸時代の武士の日記などには時折芝についての記載があり、芝の調達や手入れなどについての資料になります

そのような日記の1つが『宴遊日記』です。書いた人は六義園を造った柳沢吉保 (やなぎさわよしやす) の孫 信鴻 (のぶとき) 。信鴻は引退後六義園に住み、そこでの生活を日記に記しました。

1772    安永九年    4月13日    木の古根掘りし百姓より芝納める故、清兵衛、秋葉の山へ付ける
1781    天明元年    5月12日    今日より清兵衛、蓮池側の草根を掘り、芝を付け
1781    天明元年    5月27日    伝芝三十六粒分求め
1782    天明二年    7月8日    太隠山納涼、伝芝を刈る
1784    天明四年    9月25日    夕照岡へ出しに、芝買い来り在り

 

​このような記述によって、芝が売買されていたこと、芝刈り、芝貼りなどの手入れをしていたことがわかります​

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