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回遊式庭園は回遊するものか

回遊式庭園は回遊するものでしょうか?

分かり切っていると思われるかもしれませんが、実はそこまで当たり前でもありません。「回遊式庭園」という概念は後世の研究者が造ったものなので、当時の人にとっては他のことの方が大事だった可能性はあります。
私も庭巡りを始めたころには、回遊式庭園は当然回遊するものと思っていましたが、実際に行ってみると「回遊?」と思う庭もかなりの割合でありました。まずそのような庭園の例をいくつか書いてみましょう。

1:入ってすぐ主屋

まず、1つ引っかかりがあったのは、庭巡りの初期に行った縮景園の配置です。南門 (正門) を入ってすぐ、正面に清風館 (園内で最も大きく重要な建物) があります。当時私が何となく思っていた回遊式庭園のイメージというのは庭の奥に茶室などがあり庭を回遊してそこへ行くというものでしたから、この配置は何か疑問に思うものがありましたが、当時はどういうことかわかりませんでした。

【「本当に回遊するもの?」と思う設計】

縮景園平面図
縮景園の主屋(清風館)

2:池が広く歩ける範囲が狭い

​次にこれもかなり初期に行った衆楽園で感じたのは、池が広く陸地が狭く、そのために路が単純だということです。特に南部は地形が単純に感じて、回遊が面白いとは思えませんでした。

​同じことが養翠園にも言えます。養翠園の東部も敷地いっぱいに池を作り、陸地は狭く、園路は単純なものになっています。

衆楽園平面図
養翠園平面図

3:庭の奥まで行く動機が弱い

養翠園についてはもう1つ引っかかっていたことがあります。主要建物と景物が西側 (入口側) に集中しているため、東側 (奥側) に行く動機が弱いということです。これは岡山後楽園にも言えます。岡山後楽園でも主要建物や景物が入口側にあり、奥に行く動機が弱そうに見えますし、実際にも奥の方 は来園者があまり行かない辺境のようです。

【なぜこのような設計なのか】

以上3つの点について、今では私には考えがあります。

なぜ「入ってすぐ主屋」という配置にしたのか?

主屋に行って宴会などをするのが大事だったからです。

なぜ、(結果的に陸が狭く路が単純になっても)敷地いっぱいに池を作ったのか?

​舟遊びをすることが大事だったからです。

なぜ、主屋から遠い側に見所が少なく造りがおおまかなのか?

​主屋で遊ぶことが大事で、主屋から遠い側はただの遠景だからです。

​要するに、回遊式庭園というのは回遊第一とは限らないのです。

【なぜ「回遊式庭園」と呼ぶのか】

実際には回遊第一でないとしたら、なぜ池泉回遊式庭園という名がついたのでしょうか。多分この名前を付けた人はそこに芸術性か技術的進歩か、あるいは時代の特徴を感じたのでしょう。池泉回遊式庭園という用語は江戸時代の庭園に限って使うことが多いのですが、室町時代までの庭園との違いが「回遊」ということです。

その違いを考えるために、まず室町時代までの池泉庭のことを考えてみます。
室町時代の庭園、例えば金閣寺(鹿苑寺)庭園のことを思い出して下さい。
金閣寺に行った人の多くが、池のほとりに立って池の方を見たと思います。大多数の人は対岸の金閣を見たでしょうし、ちょっと庭マニアな人なら池の中島や岩島を見たかもしれません。どちらにしても、見所は池に集中しています。路がついてはいますが、「立ち止まって」「池に向き直って」「見る」というのが主な楽しみ方です。


一方江戸時代の「回遊式庭園」、例えば桂離宮庭園には違う楽しみがあります。そこにあるのは橋を「渡り」林を「抜け」坂を「上り」見晴らしの良い頂上に「到達する」といった、移動系の動詞で語るべき体験です。


江戸時代の庭園について、茶庭の影響を受けているとよく言われます。それは灯篭とか飛石とか言った個別の点ばかりではなく、茶庭の影響で設計思想も変化したというのが私の理解です。茶庭というのは本来茶室への通路ですから、止まって凝視するというよりも通り抜けながら感じるものでしょう。その茶庭の影響で、池のある広い庭も通りながら感じるようになったのではないでしょうか。
つまり池泉回遊式庭園とは江戸時代の「池泉」庭園であって、室町時代までの庭園よりも「回遊」志向になった庭園だと思っています。

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