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日本庭園と花

【前説】

この記事では​、庭の解説書に書かれていない (ことが多い) 庭園内の花の歴史を解説します。

といってもちゃんとした通史を書くのは私の手に負えないので、

・いつ頃から庭園に花が植えられていたのか

​・古い時代には何の花が植えられたいたのか

などいくつかのトピックを選んで解説します。

【古くから庭園に花はある】

日本でも古くから庭園には花がありました。
古くは飛鳥時代の庭園について、草壁皇子の邸宅、いわゆる島の宮の庭園にツツジがあった ことがわかります。
また発掘調査では、飛鳥京跡苑池の泥の中からハス・オニバス・モモ・カキ・ウメ・スモモ・ナシなどの花粉や植物遺体が見つかっているので、これらの花木花草が植えられていた可能性もあります。

次に奈良時代の宮廷、貴族庭園について。
池などの工事を伴う大掛かりな庭園を当時は「しま」と呼んだようです。そのような庭園にはハス 、アセビ などが植えられていたことがわかります。また宮跡庭園の池にはプランターのような木製の桝があり、土壌分析からカキツバタが植えられていた とされます

このような大掛かりな庭はおもに大貴族のもので、一般的な庭は家の周り「やど」に植物を植えた、植物中心の庭だったでしょう。『万葉集」で「やど」に関係するものを調べてみると、「ウメ・タチバナ・モモ・ハギ・ナデシコ・ユリ」などが詠まれています。

 

このように飛鳥・奈良の時代から上流階級の人々は庭に花を植えて楽しんでいたようです。
 

宮跡庭園の池

【枯山水にバラ!? 意外とお寺の庭園にも花があった】

現在お寺の庭に花のイメージはあまりないでしょう。あるとしても池のハスか刈込のツツジのイメージです。ところがかつてのお寺の庭は花の量も種類もたくさんあったようなのです。

 

例えば鹿苑寺(金閣寺)の住職だった承章 (じょうしょう) は境内にケイトウ、ツバキ、ツツジなどを植えたという記録がありますし、醍醐寺座主だった義演 (ぎえん) は醍醐寺三宝院の庭園にウメ、ツツジ、サクラ、サルスベリ、ボタンなどを植えています。承章は園芸が好きだったのか様々な品種を集めていましたし、義演も庭いじりが面白くなったのか晩年まで木の植え替えなどの改修を行っています。

 

さらに面白いことに、枯山水に年中花が咲いていたという宣教師フロイスの証言があります。その庭は大徳寺の塔頭のどれかで、真っ白な荒い砂が敷かれていて、1mから1.5m位の自然石がいくつかあったといいますから枯山水でしょう。そこに「多くの薔薇 (ローザ) に交じって草花が植えられていた。仏僧たちの説によれば、年中、それらのうちどれかが入れ替わりに花咲くとのことであった」とフロイスは記しています。

​これらの例からわかることは、お寺の庭を華やかな花で飾ることはタブーではなく、かつては花の種類も量もたくさんあったらしいということです。

​また完成した庭を見るだけでなく、園芸や庭づくりも楽しみだったようです。

現在の大徳寺瑞峯院

【茶庭にも最初は花があったらしい】

現在茶庭には花草を植えないのが普通です。この件については「朝顔の茶の湯」という有名な逸話があります。

 

「宗易 牽牛花みことにさきたるよし太閤へ申し上る人あり さらは御覧せんとて 朝の茶湯の御渡ありしに 朝かほ庭に一枝もなし 尤無興におほしめす 

扨小座敷に御入りあれハ 色あさやかなる一輪床にいけたり太閤をはしめ召しつれられし人々目さむる心ちし給ひ はなハた御褒美にあつかる

是を世に 利休あさかほの茶湯と申傳ふ」

(『茶話指月集』)

利休宅のアサガオが見事だと秀吉が聞きつけて朝訪問します。ところが庭には一輪の花もなく、秀吉は不機嫌になりました。そして茶室に入ると床の間に一輪だけアサガオが生けてあり、秀吉一行が感嘆した、という逸話です。

この話がどれくらい事実通りなのかはともかく、このような逸話を通じて「茶庭に花が無い方が茶室の花が際立つ」という美意識が伝えられてきました。

ですがこのエピソードは「利休の頃には茶庭にも花があった」と読むこともできます。秀吉が不機嫌になったのは、庭にアサガオが咲く光景を予想したのに裏切られたからでしょうし、それはつまり「茶庭には花を植えないもの」という通念や約束事はまだなかったということです。

 

実は『茶話指月集』にはこのエピソードの補足があり、そこには「その後遠州公の比より 露地に花をうへられす」とあります。これを信じるなら、茶庭に花を植えないようになったのは小堀遠州の頃からで、利休の頃には花があったということになります。

臥龍山荘の茶庭

【流行と定番の花】

庭園に植えられる花は時代と共に増えていき、品種も増えていきます。その中でも時代ごとに人気の花がありました。

例えば奈良時代にはウメ、ハス、モモ、などが人気だったようですが、平安時代になるとウメよりもサクラが好まれるようになります。サクラの花を見ながら宴会をするようになったのも平安時代です。

江戸時代にはウメ、サクラなどが引き続き庭園に植えられる一方、前期にはツバキ、キク、ツツジ、ボタン、後期にはサクラソウ、アサガオなどが流行しました。このうちツツジは刈込の材料も兼ねて全国の寺院に植えられたようです。現在でも地方寺院の庭園でサツキ・ツツジの刈込を見かけます。

また江戸時代の大名の間ではハナショウブも人気で、大名を出資者として品種改良が盛んにおこなわれました。

頼久寺庭園のツツジ

【実は花壇も存在】

[室町時代から花壇は存在する]

花壇は洋風庭園のイメージがありますが、遅くとも室町時代には日本にも花壇があったことをご存じですか?

 

伏見宮三代貞成親王(1372-1456)の日記『看聞日記』には「東庭に花壇を築き草花を栽 (う) える」という記載 (1418年(応永25年)2月28日の条 原文は漢文) があります。

ほかにも『看聞日記』には貞成親王の別の屋敷 (一条東洞院邸) に花壇を作った記録がありますし、福井県の一乗谷朝倉館跡では室町時代の花壇跡が発掘されています。有名なところでは慈照寺 (銀閣寺) には室町時代からボタンの花壇があり、その名残が現代の「仙草檀」となっています。

慈照寺庭園の仙草檀

その後桃山時代には醍醐寺三宝院の庭園に花壇があったことが、醍醐寺座主だった義演准后の日記からわかります。

 

江戸時代になると庭園に関係する史料も増えるので、多くの庭園に花壇があったことが分かります。

例えば京都仙洞御所の御殿前にはユリ、ツバキ、ボタンを植えた花壇があり、岡山後楽園の鶴鳴館前にはユリ、ボタン、キクなどの花壇がありました。次の図は岡山後楽園を描いた図ですが、鶴鳴館 (図の左) と芝生地 (図の右) の間に長方形の区画と「キク」「ボタン」「百合」などの書き込みがあります。

後楽園鶴鳴館前の花壇

今は無き浴恩園 (白河藩下屋敷の庭園) にもボタンの花壇がありました。

浴恩園の花壇

このほか慈照寺 (銀閣寺)、青蓮院、江戸城、名古屋城、戸山荘 (尾張藩江戸下屋敷)、栗林公園、などにも花壇があったことが分かっています。

このように花壇は室町時代から存在し、江戸時代には花壇の史料も多くなります。

室町時代に花壇ができた理由について飛田範夫は「室町時代に花壇を設 置するようになったのは, 花木や草花の栽培が盛んになり, 小さなものや珍 しいものを育成観賞するためであったと思われる。」と述べています。

【結び】

以上のように日本の庭園にも古くから花が植えられ、それぞれの時代に人気の花がありました。寺院の庭園にも意外に多くの花があり、時期によって入れ替わりながら咲いていました。室町時代には花壇も現れています。

​このように花を植えたのは庭の見た目を飾るためでもありますが、花を入手し育てることに力を入れていた様子もあります。

​つまり、庭園は園芸活動の場でもありました。

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