top of page

池泉回遊式庭園は池が中心なのか

更新日:1月22日

【はじめに】

池泉回遊式庭園の中心は池なのか?という問題を考えてみたいと思います。


「池泉回遊回遊式庭園」という名前からは池が一番重要であるような印象を受けますし、池が中心だと書いてある解説もあります。ですが、筆者が庭園を巡って現地で見た感想として、「ちょっとそうは言い切れないんじゃないか」というのが今回のテーマです。


【池泉回遊式庭園は池が中心なのか:複雑な築山】

・なぜ広い陸地、複雑な築山があるのか

筆者が庭園めぐりをしているうちに、いくつかのことが気になりました。

1つは、特に江戸時代の庭園で、築山(人工の山)に力を入れている点です。

下の図は六義園の平面図ですが、陸地の部分も広く、そこにいくつもの築山があることが分かります。

この築山は、単に池を掘った土を処理しただけとは思えません。

築山がいくつもあり形も複雑なことは、そこにこだわりや設計の意図があったと感じさせます。

六義園の平面図
六義園の平面図

このような傾向は他の庭園、例えば芝離宮恩賜庭園で見られます。

芝離宮恩賜庭園
芝離宮恩賜庭園

【池泉回遊式庭園は池が中心なのか:池から離れた路】

もう一度六義園の平面図を見てみましょう。今回は路に注目してみます。池から離れた路が多いことが分かるでしょう。池のまわりには人工の山がいくつもあり、山の外側(池から遠い側)や山の間にも複雑な路があります。路が必要以上に分岐したり曲がったりしている点もポイントです。


池泉回遊式庭園の「池のまわりを回遊しながら…」という辞書的説明は、単純化されたものだと思われます。

六義園の平面図
六義園の平面図

路はただ存在するだけではありません。道端の植物などで個性が付けられ、一部は名前が付けられて園内名所として扱われています。

六義園の「ささかにの道」
六義園の「ささかにの道」
小石川後楽園の「木曽山」
小石川後楽園の「木曽山」

このように、池から離れた部分も重要なものとして力を入れていたことが分かります。


【池泉回遊式庭園は池が中心なのか:一見ただの林に見える場所】

少なくはない庭園で、庭園の一部に、一見ただの山林のような部分があります。木が茂っていて視界が悪く、見どころではない場所です。

まず、山裾にある寺院の庭では、本物の山がそのまま使われています。

南禅院庭園のうち 山の部分
南禅院庭園のうち 山の部分
曹源寺庭園のうち 山の部分
曹源寺庭園のうち 山の部分

山林のような場所があるのは山裾に造られた寺院の庭園だけではありません。低地に造られた桂離宮庭園でも、そのような場所があります。

桂離宮庭園の林
桂離宮庭園の林
桂離宮庭園の林
桂離宮庭園の林
桂離宮庭園の林
桂離宮庭園の林

こういった場所は見どころ扱いされず、紹介や解説でもあまり触れられないところです。

しかし、多くの庭園に共通して存在するということは、何か意味があったと考えられます。


これは筆者の想像ですが、山にいるつもりになったのかもしれません。先に述べた曲がりくねった路も、山のつもりだったと考えれば納得がいきます。自然な木、視界の悪さ、路の細さと屈曲、これらが一体となって、山の雰囲気を演出していたのでしょう。

玄宮園の林と路
玄宮園の林と路
衆楽園北部の林と路
衆楽園北部の林と路
岡山後楽園の「木曽路」
岡山後楽園の「木曽路」

【六義園と山】

「山」へのあこがれが分かる例として、柳沢信鴻(やなぎさわ・のぶとき)を紹介します。

信鴻は六義園を造った柳沢吉保の孫で、大和国郡山藩の藩主。安永二年(1773年)に引退し、以後は六義園に移り住んで隠居生活を送りました。


安永二年 5月24日、六義園に引っ越した直後には次の歌を詠んでいます。


染井の山里に世をのがれて

住みわびし 都はなれて 山里に 身をのがるべき 木隠れの宿


六義園を山里とみなす見方は信鴻一人のものではありませんでした。家族や俳諧仲間も、日記や俳句の中で六義園を山里と表現したことがあります。

引退後の信鴻は観劇など都会的な娯楽を楽しむ一方、六義園で山菜を採り野鳥を観察するなど山の気分を満喫しました。

その様子は彼が書き遺した『宴園日記』に書かれています。



【まとめ】

ここまで、江戸時代の離宮庭園と大名庭園を例に、池泉回遊式庭園のなかの「山」を見てきました。池泉回遊式庭園という名にかかわらず、池が唯一絶対の中心ではなく山も重要だったことが分かるでしょう。

Commentaires


​庭をさがす

bottom of page