龍安寺方丈庭園がわからない
更新日:1月6日
[わからん]
あまりにも有名だが、あまりよくわかっていない庭。時代も作者も確定していないし、庭全体のテーマも、個々の石が何を表しているのかもさっぱりわからない。そして、この庭のどこがどうよいのか、事実から積み上げる形で説明されることがあまりない。
分からないことが多いということは、本来なら評価しづらいはずである。例えばの話、この庭が室町時代にできたとしたらとてつもなく先駆的だが、江戸時代だったらそこまででもないかもしれない。何を表しているかわからないということは、表現したいものと表現方法がマッチしているかどうか判断できないので、もしかしたら表現が下手である可能性も否定できない。評価しづらいはずであるのに、名庭園だ傑作だという評価が定着している。結論に至る過程が見えないので個人的には非常にもやもやする。
有名庭園なのでこれが枯山水の典型だと誤解されるのだが、歴史的にはそうでもないようだ。庭巡りをするようになって気が付いたことは、まず枯山水の多数には木があるということだ(大徳寺大仙院庭園のように)。石も龍安寺庭園よりは多く、白砂の割合が少ない。方丈南庭全面を使って造形するのも、古い庭にはほとんどない。
つまり龍安寺の石庭は異色の庭だったのだ。それが異色と感じられなくなったのは龍安寺自体の知名度が高くなったのと、龍安寺スタイルの庭も増えたからだろう。龍安寺スタイル(塀に囲まれた長方形の空間、平らな白砂の地、少数の石、木は無い)の枯山水は昭和・平成に多い。
有名なのは方丈南庭だが他にも庭がある。
一つは方丈の北の、木が植わっていて「吾唯足るを知るのみ」の手水鉢があるところ。あのあたりも庭には違いない。儀式スペースだった方丈南庭と違って、方丈北半は生活スペース(ということになっている)だから、落ち着くような庭にしたのかもしれない。
もう一つは池の周りの庭。そう、龍安寺にも池庭があるのだ。江戸時代にはこの池庭が名所扱いだったのだが、現在あまり顧みられないのは庭園観が変わったのだろう。
【地形】
東西20mあまりの長方形で平たい。南と西は土塀で、東と北は建物で囲まれている。
【評価など】
「龍安寺の庭は、相阿弥が作にて、虎の子渡しとやらん。名高きながら、私ていの者の見ては、好悪の論は及びがたし」
『槐記』(18c前半)より
『槐記』とは摂関・太政大臣だった近衛家熙(このえ いえひろ)の言行を日毎にまとめたもの。これによると18世紀初頭には「名高き」ものだったらしいが、家熙自身は判断がつかないと言っている。
なお現在では、庭の作者は不明ということになっている。
「此の地北は衣笠の山を負い 南は遥に開けて一陽来復より温気巡ること早し 池の面には水鳥むれあつまり玄冬の眺をなす 是を龍安寺の鴛鴦とて名に高し」
江戸時代の旅行ガイド『都名所図会』(1780)にはいわゆる石庭の記述が無く、池庭を水鳥の名所として挙げている。
「むかし細川勝元ここに別業をかまへ住せらるる時、書院より毎朝男山八幡宮を遥拝せんが為に、庭中に樹を植ず。奇巌ばかりにて風光を催す。これを相阿弥の作りし也。名づけて虎の子わたしといふ。洛北名庭の第一なり」
江戸時代の旅行ガイド『都林泉名勝図会』 (1799)から。「洛北名庭の第一」という書き方は高評価ではあるが、洛西や洛東にはさらに優れた庭があるような書き方。「男山八幡宮を遥拝せん」も論争の種になっている記述。
「室町時代ニ於ケル特殊ノ名園トシテソノ保存ノ緊要ナルヲ認ム」
「独特の手法による枯山水として価値の高いものである」
どちらも、国指定文化財等データベースから。一般的なイメージに反して学術的には(そして文化財指定の時点では)特殊・独特な庭と評価されている。
【基本情報】
・施設の性格:仏教寺院
・庭の性格:方丈前庭(最も有名な部分)、方丈裏庭、境内
・作庭年代:室町時代(ただし江戸時代説もあり)
・所在地: 〒616-8001 京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13
・アクセス:
京福電鉄 龍安寺駅下車 徒歩7分
市バス 59番系統 龍安寺前下車すぐ
市バス 50番系統 55番系統 立命館大学前下車 徒歩7分
・公開状況:公開(有料)
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