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枯山水は禅の庭か

  • 執筆者の写真: Masahiko Yano
    Masahiko Yano
  • 19 時間前
  • 読了時間: 7分

【はじめに】

枯山水は禅の庭か、ということを考えてみようと思います。

庭園めぐりを始めてから、少しもやもやしたところがありました。

というのも、「枯山水=禅の庭」というイメージに反し、個別の庭の解説で「どこがどう禅的なのか」説明されていることが少なかったからです。


例えば金地院庭園であれば、

・崇伝が小堀遠州に設計を依頼したこと

・鶴島、亀島、蓬莱のこと

・慶賀の庭である、徳川家の安泰を祈る庭であること

などがよく説明される内容でしょう。

ここで蓬莱神仙思想はもともと禅と別系統の思想ですし、慶賀も徳川家の安泰祈念も禅とは別の話です。

南禅寺金地院庭園
南禅寺金地院庭園

他の庭園でも、例えば曼殊院庭園であれば良尚(りょうしょう)親王の美意識、頼久寺庭園であれば青海波や鶴島亀島(ここでも蓬莱神仙思想)などが語られがちで、禅と結び付けた解説はそれ程ありません。


一応、大徳寺大仙院など禅の思想で解説されている庭もあるのですが、少数です。

こういったこともあって、禅の庭というイメージについて改めて考えることになりました。

頼久寺庭園
頼久寺庭園

【枯山水は禅の庭か:問題点】

改めて考えてみると、「枯山水=禅の庭」説にはいくつか疑問があります。

(1)禅寺の庭でも、主導したのが僧侶とは限らない

(2)禅寺でも、庭を見るのが僧侶とは限らない

(3)枯山水の技法は禅寺以外にも広く存在する

(4)江戸時代以前の史料には、「禅の思想を表す庭」という記述は見られない


まず、禅寺の庭であっても作庭の主導的人物は禅僧でないことがよくあります。金地院の例では小堀遠州(または家臣の村瀬佐助や庭師の賢庭)、曼殊院庭園であれば良尚親王が中心人物とみなされているでしょう。さらにいえば、これらの人物の役割はプロデュースや監修であって、真のデザイナーは職人であるという意見もあります。


また禅寺であっても庭を見るのは禅僧とは限りません。客殿や表書院の庭なら、見るのはもちろん来客です。では方丈(本堂)前の庭ならどうかといえば、ここも儀式や接客のスペースであり、来客が来るところです。僧侶が普段いる場所は別にあります。

というわけで「枯山水に向かって瞑想する僧侶」のイメージは少し疑わしいのです。


そして枯山水は禅寺特有のものでもありません。発祥は禅寺なのでしょうが、江戸時代にはすでに公家の庭園や大名庭園にも枯山水が存在しました。他宗の寺院や庄屋屋敷に造られたこともあったようです。これらの枯山水を禅思想の表現とはいえないでしょう。

楽々園の枯滝
楽々園の枯滝
庄屋屋敷(旧山中家)跡に残る枯山水
庄屋屋敷(旧山中家)跡に残る枯山水

また江戸時代までの史料には、枯山水が禅の思想を表すものだという記述は見られないといいます。当時の庭のイメージは「風流」であるようです。例えば江戸時代の庭園ガイド『都林泉名勝図会』では龍安寺方丈庭園を「真の風流にして他に比類なし」と評しています。

では僧侶や関係者が書いた造営記録、日記などはどうかといえば、これらはおおむね事務的な記録であって、庭の思想や精神性については分かりません。


というわけで「枯山水=禅の庭」という説明には大きく分けて2つの問題があります。それだけでは説明できない庭が多いということと、史料的裏付けが乏しいという問題です。


【枯山水は禅の庭か:禅以外の解釈】

前節では、禅思想という視点だけでは枯山水が説明できない、ということを書きました。

ならばほかにどのような見方があるか、ということを考えてみましょう。


まず個人的に納得いくのは、接客スペースの装飾という見方です。客殿周辺、本堂前など、庭が造られた場所が1つの根拠になります。鶴亀が好んで造られたという事実も、この見方と相性が良いと思います。


また庭を造ることが趣味、道楽だったという見方もできます。一般的にいって、現在芸術とされているものは趣味道楽だった可能性があるからです。枯山水に影響を与えたものとして山水水墨画や盆景が挙げられますが、これらも趣味の側面があるものです。

【枯山水は禅の庭か:現代の枯山水】

最後に、現代の枯山水について、感想のようなものを。


戦中戦後、それ以降の枯山水について、3点、今考えました。

・職業的な庭園デザイナーによって作庭されることが増えた。

・自由なモチーフと思想で造られるようになった。

・枯山水が造られる場所の幅がさらに広がった


例えば重森三玲の庭園。

龍安寺方丈庭園を「禅の庭」として高く評価した重森三玲ですが、自身が作庭する際には禅以外の思想、モチーフで枯山水を造ることが多数でした。

重森は枯山水の造形美と表現可能性に注目し、他宗派の寺院、神社、城跡、住宅など様々な場所に、寺伝、古典、伝統文様モチーフの庭園を造っています。

八陣の庭
岸和田城跡 「八陣の庭」 (写真AC)

現在では飲食店、ホテル、美術館、公共施設の一角など多種多様な場所で枯山水を見かけることがあります。それだけ枯山水というスタイルが受け入れられ、普及しているということでしょう。


喫茶店 「珈匠」の庭
喫茶店 「珈匠」の庭
万博記念公園日本庭園
万博記念公園日本庭園
JR智頭駅の待合
JR智頭駅の待合

【まとめ】

以上、枯山水は禅の庭なのか、ということを考えてみました。


禅寺文化の土壌から生まれた、という点では禅の庭といえるでしょう。


一方で、江戸時代でもすでに禅寺以外にも枯山水は造られてきましたし、現在その範囲はさらに広がっています。

庭を造った目的も、接客と考えた方が納得できる例が多くあります。

つまり、後世の人が禅を感じるのは勝手ですがあくまで後付けということです。


個別の庭の解説でどこがどう禅的なのか説明されていることが少ない、という冒頭の問題ですが、禅に結び付けて解説できることがそれほどないのだな、と今のところは理解しています。



【付録:「枯山水=禅の庭」に批判的・懐疑的な発言】

立原正秋(たちはら まさあき、1926年-1980年):小説家、随筆家

「志賀の一文が出るまで、枯山水と禅を結び付けた論はなかった」

『日本の庭』より

枯山水といえば禅の精神性、というイメージは、庭の歴史からすればごく最近になって突然出てきたものだと述べている。

「米原の青岸寺は曹洞宗だが、築山林泉式の枯山水の庭がある。造型を戒めた曹洞宗の寺になぜ庭があるか。住職の荒びがうんだのである。近江長沢の福田寺は浄土真宗だが、枯山水の庭がある。この庭をどのように禅と結びつけるのか。」

『日本の庭』より

※荒び(すさび):興にまかせてすること。慰みごと

吉川需(よしかわ まつ、1916年 - 1995年):造園学者、庭園史家

「禅院にある美術がすべて禅宗美術だとは限らないし、禅宗思想から発生した固有の庭園構成などというものは存在しないのであるから、枯山水を禅宗の産物とすることは適当でない」

龍居庭園研究所編『枯山水の話』より

庭園の「作者」をどう考えるかという考察の一部。


中根金作(なかね きんさく、1917 - 1995):作庭家、造園学者

「いわれるようにこの石庭が禅のむずかしい理論の上に成り立っている形であるとか、石組の配置が禅の教理に合致しているとかいうものではない。」

「作庭にあたって禅の教理など念頭においては石組などできるものではない。そのことは、作庭や創作をよくするものであれば、容易に理解できることがらである。」

『名庭のみかた』より、龍安寺方丈庭園についての解説の一部。中根金作は龍安寺の庭に禅的な何かを感じることは肯定するが、作庭の時に禅の事を考えていたとか、庭が禅の教えを直接表現しているという説は否定する。


進士五十八(しんじ いそや、1944年 - ):造園学者

「造園活動の結果としての造園作品(の形態)は、先ず人間の手になったものである事を確認しなければならない。

思想や宗教の影響があるとすれば、それは作品創造者の人格形成の一要因としての意味に於いてである。従って思想は作品を規定する程重大な意味を有しない。

根本は人間が作品を規定する事実であり、その人間はその時代の社会、経済情勢、思想通念、慣習など社会環境及び作庭の為の自然環境や造園材料に依って支配される事は前言の通りである。」

「日本庭園河原者造型論」『造園雑誌』1970年33巻4号より

思想が庭の形に直結するかのような単純な理解に対する批判。


「過去の多くの文化が一定の様式や形式を形成したのは権力者の思いつき的独創の結果に依るものでは無く、永年に亘って連綿と続行せられた処の現場に携さわって来た技術者群に依ったものである。

一デザイナーの単独活動は「形」を形成しても「形式」を形成する事は無く、形式形成は技術者集団の継続的創作活動の中に成立つ 。」

「日本庭園河原者造型論」『造園雑誌』1970年33巻4号より

日本庭園(枯山水含む)の形式形成について、河原者と呼ばれる技術者集団の役割を重視する主張。


 
 
 

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