庭園公開と庭園観光の歴史
- Masahiko Yano
- 6月1日
- 読了時間: 6分
庭園公開と庭園観光の歴史について考えたいと思います。
元々庭園はオーナーや招待客だけが利用できるものでした。
庭園が観光の対象になったのは庭園の歴史からすると比較的最近のことで、入園料などが制度化されたのはさらに最近のことです。
その歴史を見ていきましょう。
【室町時代:観光以前】
室町時代までは庭園観光はほぼ無かったと考えられます。
その中で興味深い事例は、京都の寺院を訪問した朝鮮通信使の例です。
1420李氏朝鮮の外交使節の一員として来日した宋希璟および1443年に来日した申叔舟は複数の寺院庭園を見学し、特に申叔舟は西芳寺庭園の情景を細かく書き記しています。
参拝や式典のためではなく庭を楽しむための来訪という点で興味深く、これらの寺院が名所として認識されていたことが分かります。
花林池水作清凉 松竹烟霞午梵長 半日坐来探勝事 東区自有一西方 (宋希璟『老松堂日録』)
戦国時代の日本で布教したカトリックの宣教師フロイスは、金閣寺、大徳寺、足利将軍邸、旧細川邸などを訪問し庭園について書き残しています。
またフロイスは金閣寺の庭園には多くの人が散策に訪れるとも記しています。
(フロイス『日本史』)
このように室町時代には現在のような庭園観光はありませんでしたが、庭園が名所として認識され見物されることがあったようです。
【江戸時代:漸進的公開と庭園観光の萌芽】
江戸時代になり、生産力が向上し社会が安定すると、実質的な観光旅行が始まりました。人の移動や旅行は制限され許可証が必要でしたが、巡礼名目で実質的な観光が行われたのです。
庭園も観光対象になったことは1799年に刊行された『都林泉名勝図会』などから分かります。この本は庭に特化した名目5巻、実質6巻の案内書で、大徳寺、慈照寺、高台寺など庭の版画が多数掲載されています。
(小野健吉「日本における寺院庭園の歴史と庭園観光」)
これらの庭園観光の実態は、訪問者の日記などによって断片的に知ることができます。
たとえば歌人、国学者、文章家である津村淙庵は随筆『譚海』の中で
・「銀子壱両奉納すれば、万人講の衆中に入られ、金閣仮山等一覧する事なり」
と記しています。仮山とは庭園のことです。この1文からすると1両は「奉納」であり、拝観者は名目だけでも「万人講」というグループに入る必要があったようです。
拝観料に関しては、他にも次のような例があります。
・1789年、司馬江漢、鹿苑寺を見物し 10 人分の料金として「銀二匁」を払う
司馬江漢『江漢西遊記』天明 9 年(1789年)3 月 21日条
・1802年、曲亭馬琴、京都を訪問し旅行記に「金閣拝見の者、一人より十人までは銀二匁なり。(中略)東山銀閣寺もまたかくのごとし」と記す
『羇旅漫録』
・1835年富本繁太夫らの一行が高台寺を訪問し「拝見料」として一朱を支払う。(『筆満可勢』)
・1839 年、木内啓胤、金閣寺を訪問し「拝見料弐百文差出し勝手より切手を受取」る
これらの記載から、江戸時代後期において、鹿苑寺、慈照寺、高台寺は有料公開されていた(されることがあった)ことが分かります。ただし、現在のような「定額で誰でも」が制度化されていたのかどうかははっきりしません。
ここまで主に寺院庭園の観光と公開を見てきました。
ここで江戸時代の大名庭園についても少しふれておきましょう。
大名庭園は基本的には大名と家族のためのものでしたが、外部の人が庭を見物した記録が六義園、小石川後楽園、戸山荘、岡山後楽園などに残っています。
初めは庭の主に関係のある人物(医師、出入り商人、芸事の師匠など)が用事のついでに庭を見物することが多かったようです。
後に、主人と関係の薄い人が庭の見物だけのために訪問する(見学を願い出て許可される)例が出てきます。
接待を受けるわけでも行事に参加するわけでもなく、見るだけという点でその後の庭園観光に近いものがあります。
また大名庭園では、日を指定しての一般公開も行われることがありました。
【明治から昭和初期:庭園観光の規模拡大】
明治時代になって旅行が自由化されると、庭園観光を含め観光の規模が拡大しました。
この時期に起こったことの1つは、壊されなかった大名庭園の多くが国や自治体に譲渡・接収され、公園として一般公開されたことです。
たとえば兼六園は1874年、岡山後楽園は1884年に公開されました。
公開に伴い、花木花草の増加や休憩所の整備などが行われました。
崖急に 梅ことごとく 斜なり 正岡子規 1889年4月5日 偕楽園
しめ縄や 春の水湧く 水前寺 夏目漱石 1898年 水前寺成趣園
また、鉄道網が整備され、都市と地方の庭園へのアクセスが容易になったことも重要です。
栗林公園:1917年に高松琴平電気鉄道市内線 高松駅前~公園前が開業
偕楽園:1925年に水戸線偕楽園駅が開設
鉄道会社は集客のために観光地の宣伝を行い、庭園もその一部として取り上げられました宣伝には旅行案内書や新聞広告、写真絵葉書などが使われました。
・寺院についても、定額の拝観料を徴収して公開するというシステムが次第に浸透してきました。
そのきっかけは明治初頭に京都の寺院で行われた博覧会だとする研究があります。
1898年の内務省令第6号により、参拝に際して料金を徴収することが禁止された一方、建築、庭園、寺宝などの見物に対しては地方長官の許可を得たうえで料金を徴収することができると規定されました。
【戦後期から現代】
その後の庭園観光も簡単にふれておきましょう。
高度成長期には大衆観光が拡大し国内旅行がブームに。その一環で庭園観光も拡大しました。この時期の旅行はパックツアー形式が主流で、食事や名所めぐりの中に庭園も入る形がある、という程度でした。庭園が中心の旅行はまだ盛んではありません。
高度成長完成からバブル期になると、個人観光やテーマ性のある観光が増加しました。この時期には庭園の文化財的価値が再認識され、往時の姿を復元することも行われるようになりました。

現代では、多様化した観光テーマの1つとして、地味ながら庭園観光も定着しています。
庭園側でも、魅力と収益性を高めるため、以下のように様々な努力をしているようです。
・飲食の提供
・体験の充実
・夜間観光の促進
・デジタル技術の利用
・地元サポーターによるガイドや接待
【まとめ】
・元々庭園はオーナーの生活の場や式典などの会場であった
・したがって庭園を享受できるのは関係者や招待客であった
・訪問者は庭園を見るだけでなく接待を受けたり行事に参加したりするのが普通だった
・遠方から来た部外者が庭園を見物したという例は室町時代に存在する。
・江戸時代に実質的な観光旅行が始まり、庭園の案内書も出版された
・明治時代以降、旅行の自由化やインフラの整備によって観光が拡大した。
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