top of page

栗林公園(北庭)

更新日:3月31日



北庭は明治以降に公園として、つまり不特定多数が利用する前提で整備されたという点で南庭とは様子が異なっています。北庭の改修には須磨離宮の庭を設計した福羽逸人(ふくば はやと/いつせん)、新宿御苑の造営に携わった市川之雄(いちかわ ゆきお)などが関わりました。


【北庭の歴史】

[概要]

北庭自体は江戸時代にも存在しましたが、主に松平家の御殿や鴨場などで庭園として造りこまれませんでした。幕末には畑になっているところもたくさんありました。北庭が完成したのは明治時代になってからの改修によります。

[年代別補足]

栗林公園の現存する最古の図(1700年)によると、北庭に巨大な御殿と大きな池(現在の芙蓉沼と群鴨池)があったことがわかります。北庭は小さく描かれ、書き込みもあまりありません。

江戸時代中期、1740年に園内名所59ヵ所が選定されたのですが、そのうち北にあるのは「かいのくち」「芙蓉沼」「石梁」の3か所だけでした。この後、財政難の高松松平家は実用主義に転換し、庭の美観のための新規工事はほとんど行わなかったと考えられます。

その後明治になってから庭園の整備が進みました。明治30年の改修で商工奨励館(当時の名前は讃岐博物館)ができました。明治44年からは宮内庁技師 市川之雄(いちかわ ゆきお)の設計で大改修が行われ、北門付近の芝生広場や商工奨励館前の整形式庭園、北門から商工奨励館までのS字状の路などが造られました。現在の北庭の大枠が完成したのはこの時です。

その後も建物の増設や鴨場の復元などの改修がありつつ今に至ります。


【北庭の見所】

[概要]

北庭は都市公園として整備されたので、散策、イベント、運動などを重視しています。

ただし、江戸時代の石組などがいくらか残っているほか、明治以降のものでもヒマラヤスギの巨木などの見所もあります。

[詳細]

以下は北庭の個別の見どころです。

百石松:栗林公園で(南庭北庭を合わせて)最も姿の良い松とされる。

百石松
百石松

鴨場:江戸時代の鴨場を復元したもの。鴨猟の方法について解説あり。

復元された鴨場
復元された鴨場

永代橋付近の陰陽石:江戸時代に造られた、子孫繁栄を願う石組

石梁 (せきりょう):江戸時代からある石橋で、石の欄干があるのが珍しい。芙蓉沼(ハス池)とセットで中国風を目指したのかもしれない。

石梁
石梁

潺湲池 (せんかんち):栗林公園では数少ない、流れを見せる場所。近くにはカエデもあり撮影スポット。

潺湲池
潺湲池

商工奨励館:明治時代に造られた重厚な和風建築。伊藤平左衛門の設計。一部西洋建築の技法を導入している。

商工奨励館
商工奨励館

商工奨励館前のヒマラヤスギ:樹高20mで、新宿御苑のヒマラヤスギと同クラスの巨木

ヒマラヤスギ
ヒマラヤスギ

讃岐民芸館:讃岐の民具などを展示する小さな博物館。古民芸館は山本忠司設計。前庭と中庭は中根金作設計。

香風亭の擬木:芙蓉沼の東にある東屋「香風亭」の柱は木ではなく鋳造の擬木。


【現状との差異】

・北門付近の現在芝生広場になっている場所は、江戸時代には竹藪の中をまっすぐな路が通り、北門から御殿へのアプローチでした。

・商工奨励館とその南北の広場状の場所、そして北梅林のあたりにかけて、一時期(1700年頃)巨大な御殿がありました。その後経費削減か何かのためこの巨大すぎる御殿は取り壊され、幕末には畑になっていました。

・商工奨励館の西にある芝生広場は、かつての御殿の跡地。前記の巨大すぎる御殿が取り壊された後しばらく経って、ここにもっと常識的なサイズの御殿が建てられました。その建物は明治になって売却され、残っていません。


【北庭の施設と利用】

・商工奨励館(北館)は会議やレセプションのために申請して借りることができます。ちなみに南館には栗林公園についてなどの常設展示があり、東館では伝統工芸品の展示や製作実演が行われ、西館はカフェになっています。

・梅まつり(北梅林)や花見(商工奨励館前、芝生広場)が行われます

・天候が良い日には芝生広場でピクニックする人がいることもあります

芝生広場
芝生広場

【基本情報】

・施設、庭の性格:都市公園

・設計:福羽逸人、市川之雄など

・作庭時期:主に明治時代から大正時代。部分的に江戸時代のものも残る

・公開状況:公開(有料)

【外部リンク】



bottom of page