日本の庭園と眺望
更新日:2023年12月12日
庭園と眺望について、昔の人はどう考えていたのでしょうか。それがわかる1つのエピソードが『今鏡』に残されています。登場人物は白河上皇と、『作庭記』の著者とされる橘俊綱です。
【白河上皇と橘俊綱の会話に見る庭園観】
白河院、一におもしろき所は、いづこかあるとゝはせ給ひければ、一にはいしだこそ侍れ。つぎにはとおほせられければ、高陽院ぞ候ふらんと申すに、第三に鳥羽ありなんや。とおほせられければ、とば殿は君のかくしなさせ給ひたればこそ侍れ。地形眺望など、いとなき所也。第三には俊綱がふしみや候ふらんとぞ申されける
(白河上皇が、第一に素晴らしいところはどこか、とお尋ねになられると俊綱は「第一は石田でございます」。次はどこかとおっしゃるので「高陽院でございましょう」。三番目こそ鳥羽(註:白河上皇が造営中の鳥羽離宮)だろうな?とおっしゃられると「鳥羽離宮は陛下があのように御造りではございますが、地形眺望などはさほどでもないところです。第三は俊綱の伏見(の別荘)でございましょう」とお答えした)
白河上皇の問いに答えて俊綱は3つの庭園あるいは別荘を挙げましたが、そこに鳥羽離宮は入っていませんでした。その理由として俊綱が指摘したのは「地形眺望など、いとなき所」という点です。このエピソードからは上流階級の別荘庭園について、「地形眺望」が無ければ超一流ではないという俊綱の庭園観がうかがわれます。
【その他の例】
他の例を見てみると、皇室、摂関家、将軍家などの超名家が京都周辺の眺望の良い土地に別荘を持っていた例があり、それらの一部は後に名高い庭園となっています。天龍寺、鹿苑寺、慈照寺などはそのような別荘の跡地で、敷地内に眺望の良い場所があります。修学院離宮(上御茶屋)も眺望の良い場所です。ガイドの方によると眺望の良い上御茶屋が修学院離宮の中心であり、下御茶屋は中継地点のような役割だったそうです
桂離宮はあまり眺望のイメージがありませんが、崇伝の『桂亭記』には眺望を讃える記述があり、園内の高い所から比叡山等が遠望できたという意見もあります。またかつては2㎞程西の眺望の良い土地にもう1つの別荘(御陵山御茶屋)があり、桂離宮を訪れる際にこちらもあわせて訪問していた時期があります。
もう1つ例を挙げると、栗林公園について1745年に書かれた公式の解説書というべき『栗林荘記』には次のように眺望を讃える記述があります。
(前略)是を登りて前に遊ぶ所を顧れば復た咸な足下に在り。是を荘の東南隅と為す。以て東に望めば、麦隴万頃波濤の如し。層巒畳嶂天を擡げて雲に入る。実に荘中の偉観と為す(後略)
(飛来峰を登ってこれまで歩いてきたところを振り返ると皆足もとにある。ここが栗林荘の南東の隅である。ここから東を見ると麦畑が広々として大波のようだ。重なり合った山々が天を持ち上げ雲に入る。実に、栗林荘の中でも素晴らしい眺めである)
前後の文章からすると「是」とは園の南東の隅にある人工の山、飛来峰のことでしょう。ここから西を撮った写真がパンフレットに使われています。一方東を見ると当時は園の外の麦畑と山々が見えたそうです(現在は目隠しの木があって見えません)。その景色を「荘中の偉観」とまで言っているのは、眺望が当時の人にとって重要ポイントだったのだと思われます。
【結論】
以上のように、上流階級の別荘庭園に関して眺望が重視されていたことがわかります。庭園は純粋芸術とみなされることも魅力ある環境とみなされることもありますが、魅力ある環境という視点からすると眺望が良いということは重要なプラスポイントに違いありません。
【参考】
中村一、尼崎博正共著 『風景をつくる』 昭和堂 2001年
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