江戸時代における桂離宮の利用
- Masahiko Yano
- 5 日前
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【はじめに】
桂離宮の庭は本来使う庭でした。また、参観の時に聞いた話だと、現在でも、皇室の茶会や国賓の接待に使われているそうです。
普段私たちはこの庭を鑑賞するものだと思っています。ですがそれは、皇室の茶会に招かれる可能性のない部外者ゆえのことなのかもしれません。
今回は桂離宮の利用について、宮内庁のサイトと江戸時代の文献(宮内庁書陵部のサイトで読めます)をもとに解説します。
【江戸時代の桂離宮:ある日の八条宮】
まずは例として、ある日の八条宮の行動をご紹介しましょう。
1720年(享保5年)9月、八条宮家7代 家仁(やかひと)親王は日帰りで廣野山と桂離宮に遊びます。廣野山(別名:御茶屋山)は桂離宮から直線距離で2kmあまり西にある山で、ここにも八条宮家の別荘がありました。
『桂宮日記』(宮家の動静などを記した日次記録)によれば親王は「暁寅刻」つまり午前4時に本宅を出発し、まず廣野山に向かいます。「夘半刻」(7時)に山のふもとにある地蔵堂に到着。朝食をとった後辰刻(8時)から山上を歩き、松茸を採るなどしました。
その後巳上刻(10時)に桂離宮に到着。庭をぶらぶら歩いたり、舟遊びをしたりして楽しみます。
申半刻(午後4時前後)に桂離宮を出発、本宅に向かいました。
以上が1720年(享保5年)9月27日のお遊びです。
【江戸時代の桂離宮:様々な活動】
上で紹介した散策や舟遊びのほか、茶会や歌会、食事、蛍見物なども記録に残っています。
たとえば
1651年(慶安4年)8月には桂離宮で和歌当座が開かれました。和歌を即席で詠む会です。
1663年(寛文3年)に後水尾上皇の訪問を受けた際には、庭の案内や舟遊び。同じ時に、お供の皇族や僧侶と俳諧もあったそうです。
1731年には「御池蛍火」が、1769年には桂川での花火見物が記録に残っています。
このように桂離宮では様々な会合や遊びが行われました。
我々が見学しかできない松琴亭も、管絃の催しに使われた記録があります。


【江戸時代の桂離宮:桂離宮周辺を含めた活動】
以上のような遊びや活動は、桂離宮内で完結しているわけではありません。
すでに少し見たように、周辺の廣野山や桂川も、遊びのプランに含まれることがありました。
まず廣野山と桂離宮のセット訪問は、1724、1740、1743、1744、1745、1746、1747年に記録があります。
1748年、倹約のため別荘遊覧自体を一時停止しますが、1743年に桂離宮での遊びを再開。
1756、1757、1759、1760、1761、1763の各年には廣野山と桂離宮をセットで訪問しています。
一方桂川と周辺での遊びとしては1616年に川勝寺で「瓜見」、1663年に後水尾上皇を迎えての舟遊び、1743年に舟遊びと盆石拾い、1747年にアユ漁を舟から見物、1753年にもアユ漁見物の記録がそれぞれあります。
ここで川勝寺とは桂川東岸(桂離宮の対岸)に存在した寺で、周辺は八条宮家の所領。「瓜見」は瓜を見ながらの宴会とも、瓜を採って食べる行楽とも言われます。
いずれにしても1616年の瓜見は「公家衆」「連歌衆」「乱舞衆」を同行した大掛かりなイベントだったようです。なお盆石とは盆の上に石を配した置物、そのための石です。
また離宮遊覧とあわせて、廣野山の地蔵堂(離宮から直線距離で2km)や長岡天満宮(同7km)など寺社を参拝することもありました。
ついでに言えば、もっと遠方に行く際に中継地として桂離宮が利用されることもありました。八条宮家2代 智忠(としただ)親王が書いた湯治のメモには、1649年に 有馬温泉で湯治した際桂離宮に帰着したと書かれています。
国書データベース『有馬湯治日記』
(スライド20が桂離宮への帰着)
【江戸時代の桂離宮:お金とスタッフ】
さて、上で少し話が出たので、お金の話をしておきましょう。
・「家計不如意により倹約」
すでに書いたように、1748年から1752年まで離宮での遊びはありませんでした。宮内庁がまとめた『桂別業関係年譜』には「家計不如意により5年間倹約を命じ、別業遊覧も止まる」とあります。倹約のために離宮へ行かなくなるということは、離宮へ行くことは贅沢な遊びだったということです。ただの移動ではなく、豪華な食事、装飾や演出、芸人や文化人への謝礼、招待客への手土産などの出費を伴うイベントだったと思われます。
・修繕費の記録
イベント以外にも、建物の修繕など、維持管理に必要な経費もあります。
『桂別業関係年譜』(と情報源である『桂宮日記』)には修繕の記事も時折出てきますが、金額まで書かれているのは以下の4年です。
1723年 修理費用銀232匁1分5厘
1764年 修理費用銀301匁9分1厘
1765年 修理費用銀1貫21匁1分4厘5毛
1766年 修理費用銀1貫113匁7分3厘5毛 (1両=4万円で計算すると約74万円)
この間1748年から1752年は例の 「家計不如意により倹約」の年です。その前後に修理費の記述があるということは、家計が苦しいためコスト意識が高まっていたのかもしれません。
・その他出費の記録
その他、お金に関するトピックとしては、1772年9月の臨時ボーナス(寸志?)
が記録に残されています。
当時の家主である公仁親王妃寿子(としこ)は当主となってから初めて桂離宮に赴き、職員に金品を与えました。具体的には留守居役2人に 「金百疋」、仕丁5人に「白絹五枚」です。金百匹とは現在のお金で1万円から数万円になるでしょう。
またこの記録により、桂離宮の職員は少なくとも責任者2人、役職なしのスタッフが5人だったと分かります。
【江戸時代の桂離宮:訪問者たち】
主人である八条宮一家や皇族以外にも、様々な人が離宮を訪れたようです。
ここではその一部をご紹介します。
・以心崇伝(いしんすうでん)
徳川家康のブレーンとして知られる以心崇伝は1625年に桂離宮を訪問し『桂亭記』を書いています。
佐野紹益(さのしょうえき):佐野紹益は京都の商人で、歌人、茶人でもあります。
1649年の茶会に、禅僧最岳元良(さいがくげんりょう)鳳林承章(ほうりんじょうしょう)と共に参加。
小堀正憲:京都代官。1689年に離宮を拝見。京都代官とは幕府の役職で、皇室領の支配・徴税代行も行うため宮家とは深い関係があります。
岸本惣八郎:京都代官 小堀克敬の家臣。御庭を拝見し、外腰掛・砂雪隠 を絵図に写しました。
【まとめ、感想】
以上、江戸時代における桂離宮の利用について見てきました。
個人的に興味深かったことの1つは、廣野山とのセット利用です。低地にある桂離宮と眺望の良い廣野山の関係は、修学院離宮の下離宮と上離宮の関係を連想させます。
また経費の話も、解説書などではあまり触れられない話で、発見がありました。
桂離宮のことを知るには、宮内庁のサイトはかなりおすすめです。
【Learn More】
宮内庁 《京都》御所と離宮の栞
https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/booklet (其の二十八が桂離宮)
桂別業関係年譜 宮内庁書陵部
『桂亭記』
『智仁親王御年暦』
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