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室町時代の武家庭園

更新日:2月25日

【はじめに】

室町時代の武家庭園はどのようなものだったのか、庭園の概説書には書かれていません。お寺については「枯山水が登場した」と書かれていますが、同時期に上級武士(や貴族)が造った庭園がどうだったのかについては触れられていないことがほとんどです。

そこで今回は室町時代の上級武士の庭園について調べてみました。

足利義満の別荘だった鹿苑寺
足利義満の別荘だった鹿苑寺

【室町時代の武家庭園:将軍たちの庭園】

まずは将軍家の庭園について。初代将軍尊氏の時代から、歴代将軍の邸宅には庭がありました。時代順に見ていきましょう


○室町時代初期(尊氏、直義~義詮)

足利尊氏やその弟直義の邸宅に庭園があったことは、虎関師錬、夢窓疎石、雪村友梅など当時の高僧が書いたものによって知ることができます。


尊氏邸の庭園について、虎関師錬がのこした詩によると、この庭は池庭で、ヤナギなどの植栽があり、珍しい草花もあったようです。詩の中には「舟」や「射場」も登場し、後の江戸時代の大名庭園を連想させます。

また夢窓疎石や雪村友梅も尊氏邸の池庭に言及しています。

「将軍府、有山林泉流之楽。以偈美之」『無窓国師語録』

尊氏がたびたび住居を変えているので、3人が書き残した庭園がどの屋敷のものなのか、そもそも同じ場所のことを言っているのかははっきりしません。


尊氏の弟直義は三条坊門(現在の御所八幡宮あたり)に屋敷を構えました。この屋敷にも庭園があったことは、雪村友梅の詩などによってわかります。

直義邸は後に2代将軍義詮(よしあきら)の邸宅となりました。


関西 剛康「足利尊氏と足利直義における庭園利用に関する研究」によれば、これらの庭園では時に禅僧や公家との交流が行われ、サロン化の兆候が見られるということです。ただし、まだ戦闘が続き政治情勢も不安定であったため、後の義満の時代ほど活発ではなかったと著者は述べています。


○室町幕府盛期

・3代将軍義満の室町殿(花の御所)と北山殿(現在の鹿苑寺)

現在で言う京都市上京区にあった室町殿は花木が多く、「花の御所」とも呼ばれました。何度か発掘調査され、池の跡や滝石組らしきものも見つかっています。


別邸である北山殿は現在の鹿苑寺です。庭には池があり、畠山石、赤松石、細川石などの名石珍石が配置されました。


・6代将軍義教の室町殿

義教は義満の室町殿跡地を再整備し、自身の住居としました。義教の室町殿には会所(集会場所)があり、鴨川の支流から水をひいた池庭があったようです。

「東京城外勝境 左相府中名園 水引鴨川之支流 山移驚背之品字」(一条兼良の歌の序より)


○室町幕府衰退期

・8代将軍義政の室町殿

義政も室町殿を再整備して住居としました。その庭園は松に覆われた小さな丘にあずまやがあり、白い砂浜に舟がつながれ、「奇花珍石」で飾られていたと言います。

(東福寺の僧侶の日記『碧山日録』(へきざんにちろく)による)

2020年の発掘調査では滝石組が発見され、同時に見つかった土器の年代から義政時代の庭園と推定されました。


・柳原御所

柳原御所は12代将軍足利義晴が1525年に造営した邸宅。

洛中洛外図屏風(歴博甲本)左隻に「くはうさま(公方様)」と注釈のある建物が柳原御所です。池、庭石があり、マツ、ウメらしき植物も描かれています。


・義輝の二条御所(フロイスの記述による)

13代将軍義輝の二条御所について、宣教師フロイスが記しています。それによると庭園にはスギ、マツ、ミカンその他の樹木とユリ、バラ、ヒナギクなど様々な色彩の花があったそうです。フロイスはこの庭園を「静養と慰安のため」としています。



【室町時代の武家庭園:有力大名が京都に持った邸宅の庭園】

次に、幕府の中枢にかかわる大名が京都に持っていた邸宅の庭園について見てみましょう。

室町時代の後期から末期に、有力大名の邸宅に庭園があったことは、フロイスの記述や洛中洛外図屏風によって知ることができます。具体的には次の邸宅です。


-東山殿

当時近畿地方を支配していた三好筑前守義長(後に義興と改名)の邸宅で、1561年には将軍 足利義輝の訪問を受けました。

洛中洛外図屏風(上杉本)によると、建物の南に庭園があり、広葉樹の高木と松が描かれています。


-細川殿

細川家は室町幕府で将軍につぐ地位にあった一族で、三好家によるクーデターで失脚させられるまで幕府の実権を握っていました。クーデター後細川一族は現在の滋賀県へ逃亡し、邸宅は放置されました。

フロイスが旧細川邸を訪問した時、建物は破損していましたが、庭園は往時をしのばせるものがあり「すばらしく美しい水をたたえた池」、「幾多の人工の小島」、「木と石でできた非常に綺麗な橋」があったと記されています。



【室町時代の武家庭園:地方武士の庭園】

戦国時代になると、庭園文化が地方の武士にも広まりました。

東氏館跡庭園

池田城枯山水跡


高梨氏館跡庭園遺構

京極氏城館跡庭園遺構

北畠氏館跡の庭園跡

一乗谷朝倉氏遺跡の庭園遺構

旧松波城庭園遺構

これらの庭園には枯山水も池泉庭園もあり、デザインは案外多様だったようです。「案外」というのは、戦国時代の地方大名の庭園はかつて「豪快」という言葉でくくられることが多かったからです。

発掘例が少なかった時代には一乗谷朝倉氏遺跡などをもとに「豪快」というくくりで語られることが多かった戦国時代の武家庭園ですが、発掘例が増えるとひとくくりにはできない感じが増しているようです。


【余談:庭園の歴史は一本道ではない】

ここで、庭園の歴史は一本道ではないということを言いたいと思います。

概説書を読むと、室町時代の庭園としては枯山水が、江戸時代の庭園として池泉回遊式庭園が書かれています。これだけ読むと、枯山水が池泉回遊式庭園に変化したか、枯山水の後を池泉回遊式庭園が引き継いだように思えるかもしれません。ですが、そうではないのです。


室町時代にも、上級武士の邸宅には池庭がありました。となれば、江戸時代の池泉回遊式庭園はその系譜と考えるのが自然です。


室町時代の枯山水は「禅寺に造られる」「実用性度外視の」庭。江戸時代の池泉回遊式庭園は「上流階級の邸宅に造られる」「使うための庭」。これらは別のものと考えるべきでしょう(モニュメント的な建築と実用的な建築は別みたいな話です)。


【まとめ】

ここまで室町時代の武家庭園について紹介してきました。

室町時代の武家庭園は解説書で取り上げられることが少ないので、マニアでも「室町時代と言えば枯山水」くらいの認識でいることがあります。中には「室町時代時代は精神性の高い枯山水が造られたが、江戸時代には享楽的な池泉回遊式庭園が造られて堕落した」などというマニアもいます。


ですがそう単純な話ではありません。室町時代には枯山水も池泉庭園も造られましたし、精神世界を表した庭も享楽的な庭も造られました。


庭園の世界は、初心者向けの解説書に描かれているよりもずっと広く、多様です。


【Learn More】

飛田範夫『日本庭園の植栽史』

小野健吉『日本庭園 - 空間の美の歴史』岩波新書新赤版1177

室町殿-足利将軍の見た庭園

都市史12 花の御所

室町殿跡 ・ 上京遺跡発掘調査広報発表資料

書院造庭園に関する研究-1-初期書院造庭園と会所・泉殿の庭園


義満築き 花の御所変じ続けた室町将軍邸城郭化への足取り|THE KYOTO|京都新聞


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