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太田家住宅の庭で鞆の浦の歴史を偲ぶ

更新日:1月13日

古い港町の情緒を残す町、鞆の浦。

古くから潮待ちの港として栄え、万葉集にも名前が登場します。

吾妹子が見し 鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき (大伴旅人)

古くから栄えた要因の一つが、瀬戸内海のほぼ中央というその立地です。潮が満ち来る時間帯には東の紀伊水道、西の豊後水道、関門海峡から流れ込む水が鞆の近辺でぶつかり、潮が引く時間帯には逆に鞆から離れるように水が動きます。航行に潮と風を利用していた時代、船は潮が満ち来る時間帯に鞆に入り、潮が変わるのを待ち、引き潮に乗って鞆から離れていきました。


【太田家住宅について】

そんな鞆の浦は、自然景観とともに古い街並みでも有名です。なかでも港のすぐそばにある太田家住宅 (おおたけじゅうたく) は、ほぼ1区画を占める大きなお屋敷で、1991年に国の重要文化財指定を受けました。

その歴史をたどると、もともと江戸時代に薬用酒「保命酒」を造っていた蔵元・中村家が造った建物。保命酒は高級酒でもあり、朝鮮通信使がこの地方に立ち寄る際も提供され、幕府にも献上されました。献上された分の一部は幕末のペリー来航の際に食前酒としてふるまわれています。


この保命酒を独占的に製造・販売することで中村家は大きな利益を上げ、当時のセンスと技術を結集したデザイナーズハウスを建てました。中村家は鞆近辺で最も立派な御屋敷であり、幕末の七卿落ちの際も三条実美らの宿泊所となっています(ちなみにこの時にも保命酒がふるまわれ、これに対して三条実美は「世にならず 鞆の浦の竹の葉 斯くて嘗むるも 珍しの世や」との歌を詠んでいます)。

その後明治時代になって独占が廃止されたこと、大名家に対する債権が回収できなかったことなどで、中村家の保命酒は衰退します。中村家は蔵元を廃業し、土地と建物は廻船業者の太田家が受け継ぎました。太田家の所有となってからも酒蔵を含めて建物はよく保存され、前述のように1991年に重文指定を受けています。


【庭について】

太田家には接客のための部屋「大広間」「上の間」があり、それらに沿って庭があります。


【どんな人におすすめ?】

・古民家と、歴史の舞台になった場所が好きな人。特に建物に上がれるところが良い人

・鞆の浦に行く人

・建物と庭がセットで保存されていてほしい人


【基本情報】

施設の性格:大規模町家

庭の性格: 居住空間、迎賓空間のセッティング

作庭年代:江戸時代

アクセス: JR福山駅から鞆鉄バス鞆の浦線鞆港行きで30~40分 終点鞆港バス停下車徒歩3分

公開状況:公開 (有料)


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