北川村モネの庭「水の庭」で色彩を感じる
更新日:2023年8月3日
[モネの色彩感、空気感を追求]
高知県にある北川村モネの庭マルモッタンは、本家以外で唯一「モネの庭」の名の使用を公式に認められている。庭は幾つかのエリアから成るが、最も有名なのが「水の庭」
【モネと本家モネの庭について】
クロード・モネ(1840年- 1926年)は、フランスの画家で、代表作の1つ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になるなど、印象派を代表する人物。
モネは後半生を過ごしたジヴェルニーの自宅に「花の庭」と(スイレンの池のある)「水の庭」を整備し、特にスイレンの池を好んで画題とした。この庭はそれ自体がモネの芸術作品とされ、現在はクロード・モネ財団が管理している。
【北川村の「水の庭」について】
このうち「水の庭」はジヴェルニーの「水の庭」をモデルとした庭。東西に長い(約80m)1つの池とその周辺。池には太鼓橋があり、スイレンが植えられている。このスイレンは葉が楕円形に並ぶように水底に鉢を並べて位置決めしているそうだ。池の周囲は草木が茂っているが、北フランスのジヴェルニーと高知では気候が違うので全く同じ植物というわけではない。だが担当者が本家の庭を訪問するなどして、モネの空気感、色彩感を受け継いだ庭を造ろうとしている。
その庭づくりが認められ、造園責任者の川上裕(かわかみゆたか)さんはフランスの文化勲章「シュバリエ」を受章している(情熱大陸で取り上げられたので知っている人がいるかも)。
【なぜ北川村にモネの庭があるの?】
現在では高評価を得ている北川村モネの庭マルモッタンだが、もともとこの場所にモネの庭ができるはずではなく、急遽出てきた代案だったというのが面白い。
公式サイトによれば、高齢化と人口減少に悩む北川村では、モネの庭以前にユズを基幹とした町おこしの計画があった(ユズのワイナリーを誘致しようとしていた)。だがその計画も1996年春に縮小され、開発中だった土地の活用を含めた新事業を模索することになった。そうしてたどり着いたのがモネの庭という案だ。
新事業の検討はかなり大急ぎで行われたようだ。というのは1996年の秋にはジヴェルニーに担当者を派遣しているからだ。派遣はしたものの何のつても無く、最初はモネの庭の責任者に会うこともできなかったが、交渉を続けた結果、1997年にはクロード・モネ財団理事長から協力の約束を得るに至った(このあたりどうやったのか知りたい)。その後1998年と2000年には本家モネの庭の責任者が来日してアドバイス、監修などを行い、1999年には「モネの庭」の名称使用が認められた。そして2000年には「北川村モネの庭マルモッタン」が開園。開園の式典には駐日フランス特命全権大使のほか、プロジェクトの過程で交流の生まれたマルモッタン美術館館長やオルセー美術館主任学芸員らも列席した。
【ところでマルモッタンって何?】
マルモッタンというのは元々人の名前で、後に美術館の名前になったもの。この美術館はモネのコレクションで有名だ。
絵画コレクターのポール・マルモッタン(1856-1932)という人がいて、その人が死んだあとマルモッタン美術館ができた。最初はモネのコレクションはなかったのだが、1957年にはモネの医者だった人物の家族から、1966年にはモネの次男から絵が寄贈されて、現在では世界最大級のモネコレクションを持っている。印象派の名前の由来である『印象 日の出』もこの美術館の所蔵。
このマルモッタン美術館の館長でフランス芸術アカデミーの大御所でもあったアルノー・ドートリヴという人物が、「北川村モネの庭マルモッタン」(Jardin de Monet Marmottan au Village de Kitagawa)という名前を付けてくれた。
【個人的感想】
私が訪問したのは6月下旬、晴れの日、午後1時ごろだった。太陽が高いので必要以上の影ができず、光と色が溢れる印象だった。
【基本情報】
・施設の性格:観光施設(個人庭園の写し)
・庭の性格:[本家]オーナーが園芸を楽しみ、絵のモチーフとする場所、[北川村]観光庭園
・関連人物:クロード・モネ(オリジナルの施主、作者)、川上裕(北川村モネの庭の庭師)
・公開状況:公開(有料)
・アクセス:
[車利用]
高知駅から約60km90分、高知自動車道・南国ICから約50km70分、高知空港から約40km60分
[公共交通機関利用]
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