本芳我邸の庭に内子の栄華を見る
更新日:11月4日
[木蝋産業の栄枯盛衰][庭の一部のみ公開]
庭園というのはかつて富裕層限定のものだったので、何者の家に庭園があるかをみればその土地にどのような産業があったかがわかることもある。愛媛県内子町の場合主要産業は木蝋生産であり、木蝋生産で財を成した芳我(はが)家という一族がいる。以前紹介した上芳我家は芳我家の分家の1つ。
【木蝋とは】
ここでちょっと木蝋の説明を入れると、木蝋とはハゼの木の実から採れるワックス状の物質(化学的には脂質)。和ロウソクの原料となるほか、塗り薬のベースやつや出し剤、化粧品原料などとして使われた。木から採ったままに近い生蝋(きろう)と漂白した白蝋がある。明治時代には日本の主要な輸出品の1つだった。
内子では白蝋の生産に特化し、愛媛県各地や九州から生蝋を仕入れて白蝋に加工していた。
【本芳我家について】
本芳我(ほんはが)家は芳我家の本家で、木蝋生産の中心的一家。
その初代である芳我弥三右衛門孝芳 (1801? – 1867?) は白蝋の画期的製造法(伊予式箱晒法)を開発し発展の基礎を築いた。それ以前にも一応白蝋は生産されていたのだが、伊予式箱晒法によって高品質な白蝋を量産できるようになり、出荷額、販路とも拡大した。
三代目、芳我弥三衛 (1854-?) の時代が製蝋業の最盛期で、経営規模日本一であり、従業員67名、年間生産量約900トンという記録が残っている。盛んに白蝋を輸出し、1893年のシカゴ万博、1900年のパリ万博にも出品している。現在残る本芳我邸を建てたのもこの人物。
【本芳我邸の庭について】
庭は20m×20mくらいありそう(グーグルマップで簡易計測)。道路に近い側数mだけ入れるようになっている。
門を入ると左が主屋や土蔵などの建物、正面が庭となっている。庭は通路部分が砂利敷きで縁石があり、植栽部分とは区別されている。入ってすぐのところにはよく目立つマツがありこれが主木か。庭の奥は高くなっていて、斜面に積み重なるように刈込があり、奥の高いところにはクスノキの大木がある。このクスノキの大きさは門外から見た方がわかりやすいかもしれない。
建物と庭をあわせて、本芳我家の栄華と製蝋業の隆盛を偲ばせる。
【その後の本芳我家と製蝋業】
一時は国内最大規模を誇った内子町の白蝋生産だが、その衰退はほかの地域よりも早かった。1920年には本芳我家 (4代目、芳我保) が白蝋生産から撤退、1924年には最後の業者浅野善作が廃業して内子町の白蝋生産は完全に断絶した。
内子町の木蝋産業の衰退について、愛媛県生涯学習センターデータベース『えひめの記憶』は、次のようにまとめている。
「新素材への交替の時期にあたって、内子の晒蝋が第二次加工専業であったこと、品質が高級であったこと、大量生産であったことなど、かつての長所は、すべて不利にはたらいた。時代の流れは、安価な工業原料を要求する時代に変わっており、そうなれば、内陸部にある内子の地理的条件がコストを高くするものとして、きびしくクローズアップされることになった。県下最強だった内子の晒蝋業は、他地域に先がけて、大正年代に一軒残らず全滅した」
【基本情報】
・施設の性格:大規模町家
・施主:芳我弥三衛
・作庭時期:1889年 (明治22年)
・公開状況:一部のみ公開、無料
・アクセス:JR内子駅より徒歩20分
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