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西爽亭で幕末の一幕を知る

更新日:2023年10月9日

【西爽亭(旧柚木家住宅)について】

岡山県倉敷市の玉島エリアにある旧柚木家住宅 (きゅうゆのきけじゅうたく) は玉島の庄屋、柚木(ゆのき)家の住宅です。玉島は備中松山藩の飛び地であり、柚木家は備中松山藩主が領内巡回の際に立ち寄る屋敷でもあったので、藩主のための部分(御成門、書院、庭園、茶室など)が造られました。西爽亭というのはこの藩主用の部分につけられた名前です。天明年間(1781~1789)の建物などがそのままの形で保存され、建物は登録有形文化財に指定されています。


【庭園について】

庭園の主要部分は上の間(藩主の席)に面した場所、建物の奥の山側にある10m×10mくらいの空間で、上の間から見るようになっています。山麓の傾斜を利用して石を立体的に配置し、懸造りの茶室と煎茶室を設けました。この茶室には上の間の縁側から飛石を伝っていくようになっています。

また上の間の反対側(道路に近い側)にも小さいながら庭があり、こちらの縁側に立つと目の前に大きな松が見えます。小さいソテツもありました。

現在は水が涸れているが、案内の方によるとかつては山に集水・貯水施設があって池に水を供給していたそうです。山側の庭のモミジと道路側の庭の松については古くからあるものだとも話してくれました。


【玉島の恩人 熊田恰】

また西爽亭は幕末の玉島騒動の際、備中松山藩士熊田恰(くまだ あたか)が自刃した場所でもあります。

1868年2月、鳥羽伏見の戦いから間もない頃ですが、松山藩(旧幕府側)と隣の岡山藩(新政府側)が玉島で戦闘になりかける事件がありました(玉島騒動)。この時熊田恰と部下150人余りが、玉島で岡山藩の軍に包囲されていたのです。

松山藩ではすでに恭順 (きょうじゅん: おとなしく従うこと) の方針を示していたのですが、熊田たちの扱いをめぐる交渉は難航。岡山藩が熊田たちを鳥羽伏見の敗残兵とみなして厳しい処分を要求するのに対し松山藩は抵抗し切れず、熊田に密使を送って自刃を促します。

そして2月15日、熊田は部下たちの助命嘆願書をしたためた後に切腹します。こうして事態が収められ、玉島の町は戦火を避けられたのでした。


玉島の住民は熊田恰を街の恩人と敬い、玉島にある羽黒神社の一角に熊田神社を建立して祀りました。敵であった岡山藩主 池田茂政(もちまさ) も熊田の死にざまに感動し、遺族に金15両と米を贈ったとされています。


【余談】

日本画家の柚木玉邨(1865-1943)はこの柚木家の出身です


駐車場普通車数台分あり。

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